感情論がただ単に悪いとは思わない。
だが感情論であることを認めないのはよろしくない。
何か理由をつけてちょっとでも感情論ではないように見せかけよう、というのは論としてあまりに浅はかであり、余計に愚かに見えるだけだ。
まずは自分の抱くそれが「ただの感情(好き嫌い)である」ことを認め、そこから組み立てなくてはならない。
後づけの理由なんてたいていは見透かされるのだ。
ただ、好き嫌いの方向性が一緒の人にはそれも見過ごしてもらえるというだけでね。
俺はわさびが嫌いだが、だからといってわさびの効用について云々言わない。
ただ風味が嫌いなのである。余計な味にしか思えないのである。ただそれだけだ。
「わさびなんてこの世に無いほうがいい理由探し」をするのはダサいってもんだろ。
例えば「生成AI(の成果物)が嫌い」なら嫌いでいいわけ。
それで「何とかして違法にしてやろう」とか「使用しないようにする働きかけ」までやるから胡散臭くなるんだよ。
消費者としては「嫌いなんだよ」だけである意味十分なの。
単に嫌いって人が多ければ普及しづらくなるんだから。
変な理由つけるから、思考の浅さを突かれるんですよ、と。
感覚は感覚でしかないが、そこは堂々とそう言いなさい。
別の箔をつけようとすると却ってクソダサくなるしだいたい論理で負けるんだよ。
感情に沿っていないとダメという枷のついた論理なんてなかなか勝てるもんじゃないのよ。
感情にまかせて俺は俺を褒める。
【年末飲酒放談5】大晦日くらい俺を思い切り褒めよう【Vtuber 罪重零雅】
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