最近は感情に合った論を「正論」と言うような人が偶にいるけど、それは逆だよな。
あえて定義するならば、感情など一切考慮しない、
1から10まで筋が通っている論が「正論」だ。
で、それを突きつけるのは厳しいかなとか空気読めないかなってことで
若干配慮したのが妥協した論である。
当然だが、「正論」という呼び方をすれば正しくなるわけではない。
そして「感情的に正しい=正論」でもない。
また、一部分が合致しているだけの別の話を
感情的に「同じ話」であるとするようなことも同様に起こりがちだ。
たとえば宿題を忘れた生徒を注意した先生に
「あんたも何か忘れることがあるだろう」と反論する。
これは「人は忘れることがある」という点だけが合致している。
他の部分については違うし、今の状況ですべき話かどうかも違う。
しかし「注意に対して反抗したい」という気持ちには合っている。
だからこれを「同じ話であるから言い返しになっている」と扱いたくなる人が一定数いる。
が、論理として何かを言っていない、本題に不要な言い返し・話の逸らしである。
こういうのは「正論」ではない。
厳しく言うと、「見え透いた詭弁」である(笑)。
できれば、せめてここをちゃんと区別できるようになろう。
というか区別できない人と普通に議論はできないだろうけど。
別に議論しなければ害はないし、できない人を差別するわけではないよ。
感情に左右されてしまうのにわざわざ議論の場に行く必要もないだろうからね。
ただ「できてないよ」という指摘は差別ではなく論への指摘であり、
感情を害したとしても受け止めてほしいところである。
そして感情は感情として発露すればよく、詭弁で理由を付与しなくていいのだ。
クソつまんない話ばかりよく書くね、と思ったあなたにはこちら。
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